お寺の紹介

お寺の由来

安生寺ができたのは飛鳥時代の終わりごろ、持統天皇がおられたころです。役小角(えんのおづの 通称は役行者えんのぎょうじゃ)が葛城山で修行中、南方に当たり毎夜霊光が輝くので、奇異に思うて尋ねて行くと 一人の老翁があって「吾はこの地の守護神である」と宣して消え失せた・・・・ので神光山と号することになったそうです。 堂宇(本堂)と本尊 は役小角の建立でしたが応仁の兵火にかかって消失しました。 その後、聖武天皇が勅願寺として伽藍を建立、さらにその皇女井上内親王が安産を祈願せら れ、霊験を得られたので安生寺というようになりました。 ちなみに井上内親王(光仁天皇の皇后)は、当時としては37歳というかなりの高齢出産で、 無事安産されたので、本尊の十一面観世音菩薩は子安の観音様と呼ばれるようになりました。

本尊・宝物・文化財

本尊

十一面観世音菩薩立像(本尊、別名・子安の観音)

追儺鬼面・赤鬼

木造彩色 縦30.3cm(1尺) 横20.3cm(6寸7分)

追儺鬼面・赤鬼

木造彩色 縦29.7cm(9寸8分) 横22.1cm(7寸3分)

追儺毘沙門天面

木造彩色 縦23.6cm(7寸8分) 横18.8cm(6寸2分)

追儺毘沙門天面

木造彩色 縦25.7cm(8寸5分) 横18.2cm(6寸)

追儺鬼面・青鬼

木造彩色 縦25.7cm(8寸5分) 横18.8cm(6寸2分)

その他の宝物・文化財

十一面観音立像、如来形坐像(鎌倉時代)、毘沙門天立像、大日如来坐像ほか。 花立一対(享保16年銘)

年表

飛鳥時代
(6世紀末―710年)
飛鳥時代の終わり、持統天皇の頃(在位687―697年)、役小角(役行者ともいう。634―706年没?)が創立。 十一面観世音菩薩をまつり、神光山国生寺と号する。
奈良時代
(710−794年)
聖武天皇が天平19年(747年)、伽藍を建立、天長地久の御願寺とする。  聖武天皇の第一皇女、井上内親王(井上皇后)が、皇子安産のために祈願して皇子安産せられたので、寺号を安生寺と改める。 そののち空海(774−835年)が帰朝(806年)して在住し七堂伽藍を再興し、代々朝廷の御願寺となる。
平安時代
(794−1185年)
鎌倉時代
(1185−1333年)
室町時代
(1336−1573年)
南北朝時代(1336〜1392) 応永年間(1394〜1427) 本堂・五大堂・多宝塔・薬師堂他が焼失。 応仁の乱(1467〜1477年)  文明5年(1473) 南都大乗院門主経覚が再興。『安生寺堂塔再興勧進状(文明5年、元禄12年書写)』
戦国時代
(1493〜1573年)
天文・弘治(1532〜1558)のころ、天下乱れ兵火にかかり再び焼失。 僅かに本堂のみ残りました。  室町時代末期の作風  不動堂の役行者像
安土桃山時代
(1573〜1603)
江戸時代
(1603〜1868年)
寛永12年(1635)現在の本堂が建立(降棟の鬼瓦銘) 元禄16年(1703)『和州宇智郡安生寺略縁起(寺蔵)』書写 享保14年(1729) 寺の由緒を記す梵鐘が鋳造される。 第2次世界大戦で供出。 享保16年(1731)11月18日奉納銘の花立一対が宝前にある。 江戸時代中期ごろ 現在の庫裡が建立 明治維新時、廃寺となった延命寺の仏像を四体移す。 昭和51年2月 梵鐘再建

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